2012年5月16日水曜日


●ヴィーゼンタールの組織と同じく、ナチ残党の追跡に携わってきた民間団体には、もうひとつ「世界ユダヤ人会議」がある。

この組織は1936年、ドイツに隣接するスイスのチューリヒに、32ヶ国のユダヤ人代表280人が集まって創設された。終戦直後、「世界ユダヤ人会議」はナチス・ドイツの罪状を明らかにすべく、ランズベルク戦争犯罪裁判に代表を送り込み、後のニュルンベルク軍事法廷の基本原則に大きな影響を及ぼしている。とりわけ、ユダヤ人問題に関する多くの提言を行ない、検事団に文書や証言を提供するなど、裁判に大きな足跡を残した。

更に、ナチスに略奪されたユダヤ人の財産を取り戻すために、「世界ユダヤ人会議」は主権を回復して間もない西ドイツ政府を相手取り、賠償を求める作業に着手し、西ドイツがユダヤ人の生還者に損失財産の補償を行ない、イスラエルに対しても多額の賠償金を支払うという、ルクセンブルク合意を現出させた。また「世界ユダヤ人会議」の更なる働きかけで、1979年、西ドイツの連邦会議は、ユダヤ人問題についての「時効の廃止」を承認することになった。

 


イスラエルの国旗

 

●ナチスの戦犯を追及する"司法機関"には、ドイツの「ルードヴィヒスブルク・センター」がある。

この機関は、現在、1万6000名の戦犯リストを用意している。戦時中に被害を受けた国々も、独自の捜索機関を設け、まだ逮捕されていない行方不明のナチ戦犯を追及している。名前が重複している場合もあるが、各国の戦犯リストを合計すれば、3万名を上回ると言われている。これらは、犯行と名前が確認されている者だけであって、そのほかにも、犯罪を行なった者の名前が確認されていない場合があるという。


なお、大戦末期、ヨーロッパ南部で行動していたイギリス軍指揮下にあったユダヤ人部隊は、イタリア、ドイツ、オーストリア国境周辺で敗走するナチス・ドイツ軍を追撃、捕えた将兵を処刑するなどした。戦闘とは別の個別的な復讐といえる行動がみられた。このため、イギリス軍はユダヤ人部隊に進撃停止命令を出すほどだった。処刑した数は少なくみても2000人におよぶとの説もあるが、実数は不明。

ポーランド、ソ連などの東方地域では、両国部隊に参加したユダヤ人将兵や解放されたユダヤ人がナチスを追跡、所在を確認して連合軍に通報、処罰を求めた方法と、ユダヤ人自らが戦犯ナチス・ドイツ将兵を特定しながら追跡し、発見しだい現場で個別的に処刑する方法とがとられた。

 


ナチスに対する復讐に燃える「ユダヤ人部隊」

彼らは戦犯ナチス・ドイツ将兵を特定しながら
追跡し、発見しだい現場で個別的に処刑した

 

●このポーランドやソ連などから逃亡したナチス戦犯追及の中心になったのは、オーストリアのウィーンに置かれたユダヤ人組織である。これには1920年に結成されたユダヤ人武装組織「ハガナ」機関(イスラエル建国後は解消)と、ウィーン大学のユダヤ人学生が中心になって結成された「反ナチ学生組織」の2つがあった。双方は協力関係にあった。

当時、両組織はウィーン市内外で35人のナチス戦犯の所在を確認、ソ連軍に通報して逮捕、軍事裁判で死刑や有罪判決を得るなどの実績をあげた。イスラエル建国後、両組織に所属していた人々の大部分が祖国に移住したためウィーンでの活動は次第に低調になる。しかし、イスラエル共和国ではナチス追及の手は緩めず、1950年に「ナチス及びナチス協力者処罰法」を設け、中心的役割を担った強力な秘密情報機関「モサド」が活動を展開した。

 

 


 

■■第2章:マルチン・ボルマンによる戦後のナチス再建計画


●戦時中に、非軍事的な民間人を殺害したドイツ人の戦争犯罪人は100万人もいると言われているが、その大部分はナチス親衛隊(SS)の隊員だった。ナチス親衛隊は、親衛隊の職員や補助組織のメンバーを含めると、約150万名にものぼる。親衛隊組織の全員が戦争犯罪者ではないが、連合国側はこのうち、約5万名を逮捕し、10分の1の5000名を裁判にかけた。死刑を執行された者も、489名に及んでいる。

 


ニュルンベルク裁判

 

1945年11月、ナチス・ドイツの戦争責任を追及するために連合軍が開いた「ニュルンベルク裁判」は、起訴されたA級戦犯22名のうち、半数の11名が絞首刑を受けるという、厳しい裁判だった。絞首刑を受けたリストの中で、ただ1人だけ逮捕を逃れ、死刑執行も免れた大物がいる。マルチン・ボルマンである。

マルチン・ボルマンは、ナチス帝国の最期の日に、ソ連軍に包囲されていたベルリンから忽然と姿を消してしまったのである。

 


マルチン・ボルマン

ドイツ敗戦直前まで、総統秘書長、
副総統、ナチ党官房長として
絶大な権力をふるった

(この人物の「死」に関しては、
依然として多くの謎が残されている)

 

●ドイツ敗戦直前までボルマンは、総統秘書長、副総統、ナチ党官房長として絶大な権力をふるっていた。彼が握っていた権力は、ニュルンベルク裁判で起訴されたA級戦犯22名の中でも最高のものだったといえる。

優れた洞察力と並外れた現実感覚の持ち主であったボルマンは、1943年にナチス・ドイツ軍が「スターリングラードの攻防」でソ連軍に敗れると、この敗北を冷静に受け止め、その後、いちはやく、ドイツの敗北を前提とする「戦後計画」に着手したのだった。ナチス・ドイツ軍はこのスターリングラードの敗北を境にして、凋落の一途をたどった。


●ナチス帝国の崩壊を予知したボルマンは、ナチスの莫大な財宝を資本として使い、大勢の優秀なナチ党員をドイツ本国から脱出させる作戦を練った。財宝は、黄金75トン強、その他の何トンにもおよぶ貴金属や宝石類、真札、贋札含め数十億ドル分の通貨から成っていた。そのほか、特殊鋼板、産業機械、戦後の産業地域を支配するのに使える秘密の青写真などが、ナチスの貯えた資産の中に含まれていたという。

ボルマンは、実際は、スターリングラード敗北の前年、既にドイツの敗戦を予測していた。1942年の春、ボルマンは「I・Gファルベン社」のヘルマン・シュミッツ会長など、親しい財界人を一堂に集め、連合軍によって企業資産が接収される可能性の高いことを説き、「企業防衛策」を示唆していたのである。

 


「I・G・ファルベン社」の
ヘルマン・シュミッツ会長

 

●ボルマンが提示した「企業防衛策」は、企業の流動資産を国外のドイツ系企業に移して、連合軍の接収に備えるというものだった。事実、この会議の直後から、ドイツの大手企業は、外国のドイツ系関連会社に"隠匿資金"を振り込み始めている。1944年だけで、約10億ドルが、本国の企業から外国の関連会社に振り込まれたとみられている。1944年の夏になると、ボルマンは、戦後に展開すべきナチ運動の「再建計画」を完了している。これを要約すれば、次の通りである。


【1】 戦後、ナチ組織を国外に建設する

【2】 そのために必要な活動資金を国外に移動しておく

【3】 ナチスの党資金を企業に貸与しておき、戦後にこれを、政治献金の形で回収する

【4】 ドイツ国内におけるナチ党の再建要員として、戦犯に問われる心配のない下級幹部を、企業内に潜伏させておく

【5】 ナチ党の再建に必要な記録文書、特に党員名簿や協力者名簿を隠匿しておく

●ボルマンが準備したこの「再建計画」の一部は、戦後、連合軍が押収した文書の中から発見されている。この文書は、1944年8月10日、ナチ党指導部の指示により、シュトラスブルクの「メゾン・ルージュ・ホテル(赤い館)」に財界人を集めて開かれた会議の議事録だった。この会議には、国防軍最高司令部と軍需省から、それぞれ代表者が出席している。財界側からは、「クルップ社」「メッサーシュミット社」「レックリング社」「ヘルマン・ゲーリング帝国工場」の代表者らが参加した。

議事録は次のように述べている。

「党の指導部は、そのある者が、戦犯に問われるだろうと予想している。このため、ドイツの基幹産業は、党の下級指導者を、今から"技術顧問"として受け入れる準備をしておく必要がある。党は、外国での戦後組織に献金する企業に対して、巨額の資金を貸与する。党はその代わり、終戦後の強大な新帝国を建設するために、すでに国外に移された資産、あるいは今後に移される資産の支援を必要としている。」


●この議事録は、ボルマンが準備した戦後ナチスの「再建計画」を受けたもので、基幹産業はナチスの下級幹部を採用せよ、ナチ資金を貸与する代わり戦後の再建ナチスに政治献金せよ、国外のナチ組織を支援せよ、という協力要請に他ならなかった。また、同議事録によれば、この会議では、ドイツ降伏後の、連合国側に対する経済戦争の準備、地下抵抗運動の準備などについても申し合わせている。



どのように海流が気候に影響を与えていますか?


ボルマンが準備した「再建計画」に従って、ナチス経済相ヒャルマー・シャハトは、およそ750のドイツ企業を国外に移転させる任務に就いた。ナチ党は、潤沢な党資金を企業側に預け、企業側は、想定される連合軍の接収から身を守るために、自己資金とナチの貸与資金を"架空取引"を設定して、外国のドイツ系関連会社に振り込んだ。

この時、企業側がどれほどの資金提供を受け、また、どれほどの流動資金を国外に持ち出したものかは不明である。

1946年に行なわれたアメリカ財務省の調査によると、スペインおよびポルトガルのドイツ系企業200社、トルコのドイツ系企業35社、アルゼンチン98社、スイス214社がそれぞれ、ドイツ本国の企業から送金を受けたといわれる。それらの資金の多くが、西ドイツの独立後に本国に引き上げられ、戦後の経済復興に役立ったのである。

 


ヒャルマー・シャハト


ドイツ国立銀行総裁と経済相を兼任し、
ナチスの財布のひもを握った大銀行家。
戦後、ニュルンベルク軍事裁判にかけ
られたが「無罪」の判決を受ける。

 

ナチスが所有する宝石、貴金属美術品、あるいは記録文書は、ヨーロッパ各地に隠匿されたり、南米その他に輸送された。海外へ搬出されたナチスの財宝は、イタリアを経由したものと、スペインを経由したものとがあり、イタリア経由には「鷹の飛翔作戦」という暗号名、スペイン経由には「火の島作戦」という暗号名がつけられていた。

「火の島作戦」は、ドイツからフランスを経由して、スペインまでトラックで輸送し、カディス港から潜水艦により、アルゼンチンまで運ぶルートである。「火の島作戦」が実際に行なわれていたことについては、ナチスに好意的だったアルゼンチンのペロン大統領が、1955年に失脚したのち、アルゼンチンの関係者によって裏付けられている。

ドイツ本国からトラック輸送された財宝を、スペインで受け取っていたのは、元スペイン大使と元アルゼンチン駐在海軍武官、それにドイツ系アルゼンチン人の3人である。また、Uボート(潜水艦)によって財宝が運び込まれたアルゼンチンのブエノス・アイレスでは、ドイツ大使館が雇っていた情報員と某銀行幹部と中央銀行顧問、それにドイツ人牧畜業者が荷受人になっていた。



1945年、ドイツが連合軍によって包囲され敗戦寸前になると、スペイン経由、イタリア経由に代わって、フレンスブルクや、キールの海軍基地から、Uボートで南米に財宝を移動する方法が編み出されている。制海権と制空権を失ったドイツは、新型の「長距離輸送用潜水艦」を開発していたのである。

「エレクトロ・ボート」と呼ばれていたこの潜水艦は、第二次世界大戦下の、ドイツ潜水艦技術の頂点に立つ型である。バッテリーが従来の3倍も持続するという驚異的なもので、水中でエンジンを始動でき、バッテリーチャージャーも、シュノーケルの採用で水中で行なうことができた。当時の潜水艦のほとんどは、速度が7ノットしか出なかったが、この新型潜水艦は、水中で16ノットものスピードを出すことができた。当時としては驚異的な水中性能を誇ったこの新型潜水艦は、戦後、ポラリス原潜などにその技術が継承されたと言われている。

この新型のUボートが、どれほどのナチ資産を南米に輸送したのか不明だが、終戦時の1945年5月に至るまで、輸送は継続していたのである。

 

 
(左)ノルウェーに建造されていたUボート基地 (右)ドイツ・キール軍港のUボート艦隊



「エレクトロ・ボート」は非常に優れたUボートで、第二次世界大戦中に
出現した潜水艦の中では実用面で最も優れたものであった。
エレクトロ・ボートのコンセプト通り、大型のバッテリー
372個が直列に配置されていた。

 

ナチス帝国崩壊直前にヨーロッパを脱出し、無事に南米アルゼンチンに到着したUボートには、次のものがある。

ハインツ・シェファー大尉のU−977号は、4月初めにノルウェーのフィヨルドを出発し、連合国の対潜哨戒網をかいくぐって、15週間後に無事、アルゼンチンに到着した。また、オットー・ヴェルムート大尉のU−530号も、同じくアルゼンチンに辿り着いている。

イギリス人ジャーナリストの、ウィリアム・スチーブンソンによれば、消息不明を伝えられていたUボートのうち、U−34、U−239、U−547、U−957、U−1000など5隻が、やはり南米に向かったと推測されている。

 


敗戦から2ヶ月後(1945年7月10日)に投降
してきたU−530潜水艦の乗組員たち

 

●こうしたナチスの不審な動きについて、アメリカ軍の「戦略情報局(OSS)」は次のように報告している。

「ナチ党のメンバー、ドイツの産業資本家、ドイツ陸軍は、もはや勝利できないと知って、今度は戦後産業計画を展開すべく、諸外国の通商部との友好を新たに固め、戦前の企業連合を復活させる計画に乗り換え始めている。ドイツの技術者、文化人、秘密諜報員は、経済的、文化的、政治的なつながりを広げる目的をもって諸外国に潜入するための綿密なプランをもっている。外国の企業や研究所は、ドイツの技術者や科学者を低賃金で雇い入れることができるだろう。ドイツの資本と、最新の専門学校ならびに研究施設建設のためのプランが、極端に有利な条件で提供されよう。それによってドイツ人は、新兵器の設計と完成を行なうための絶好の機会を手にすることになるからである。」

 

 


 

■■第3章:戦後、連合軍に逮捕されたナチ幹部たち


●1945年5月7日、ドイツは無条件降伏し、第二次世界大戦におけるヨーロッパ戦線は終結した。

イギリスのアンソニー・イーデン外相はロンドンで、「ノルウェーから、バイエルン・アルプスにかけて、連合軍は史上最大の追跡を繰り広げている」と発表した。

 

 
(左)激戦の末、ベルリンの帝国議会のドームに翻ったソ連国旗
(右)イギリスの外務大臣アンソニー・イーデン

彼(アンソニー・イーデン外相)はロンドンで、
「ノルウェーから、バイエルン・アルプスにかけて、
連合軍は史上最大の追跡を繰り広げている」と発表した

 

●パリの大ホテルの一室では、大勢の連合軍情報将校および事務官が、何千というナチの個人ファイルと記録カードの検討を行なっていた。ドイツ全土がしらみつぶしに捜索され、難民の列はくまなく調べられ、捕虜は一人残らず尋問された。

その結果、大物戦犯が数人捕らえられたが、こうした捜査網を幸運にもくぐりぬけたナチ幹部もいた。


ヘルマン・ゲーリングは1945年5月9日アメリカ軍に投降した。カイテルデーニッツはその後まもなく逮捕された。

軍需大臣アルベルト・シュペーアはイギリス軍将校にグリュックスブルクの執務室で捕まった。フランツ・フォン・パーペンは、娘婿のマックス・フォン・シュトックハウゼン伯所有の城の敷地にある、庭師の小屋に潜んでいるところを発見された。

 

  
左から、ヘルマン・ゲーリング、アルベルト・シュペーア、フランツ・フォン・パーペン

 

●ポーランド総督でユダヤ人を迫害したナチ法律顧問、ハンス・フランクはベルヒテスガーデン近郊の捕虜収容所で逮捕され、自殺するところを阻止された。

同じくベルヒテスガーデン近くで、ザイラーと名乗って画家として暮らしていた元教育大臣ユリウス・シュトライヒャーが逮捕された(1945年5月27日)。ニュルンベルク裁判で死刑判決を受けた彼は、絞首場で「ハイル・ヒトラー! 今にボルシェビキがお前らを殺しに来るぞ!」とその場にいたアメリカ軍人に言い放った。

 

 
 (左)ハンス・フランク (右)ユリウス・シュトライヒャー

 

●第三帝国外相リッベントロップは、シャンペンのセールスマンという以前従事していた仕事に就いて、もう一度出直そうとしていた矢先、1945年6月14日、イギリス軍将校らによってハンブルクで逮捕された。

「アウシュヴィッツ収容所」の所長ルドルフ・ホェスは1946年3月11日、フレンスブルクから遠くない農場で働いているところをイギリス軍に発見された。彼はイギリス軍からポーランド当局に引き渡され、死刑を宣告されて絞首刑になった。

 

 
(左)リッベントロップ (右)ルドルフ・ホェス

 


どのようなエネルギーがテーブルから落ちるカップのように場所を取る?

●1945年5月22日、ブレマーハーフェンに至る道路に設けられたイギリス軍の検問所で、SS長官ハインリッヒ・ヒムラーが逮捕された。彼はひげを剃り落とし、左眼には黒い眼帯をあて、陸軍兵卒の上着に私服のズボンをはいていた。ヒムラーはリューネブルクのイギリス陸軍本部に連行されたが、隠し持っていた青酸カリのカプセルを噛み砕いて服毒自殺した。

 

 
(左)ハインリッヒ・ヒムラー (右)青酸カリで自殺したヒムラーの死体

 

 


 

■■第4章:ナチ残党の地下組織「オデッサ」


ナチ残党は、戦後ほどなく、戦争犯罪人に指名された親衛隊の本隊員の逃亡を援ける地下組織を作った。暗号名で「オデッサ」とか「蜘蛛」とよばれる秘密組織である。

その他にも、「帝国」「地下救助」「岩の門」などが次々に誕生した。いずれも、世界中にナチスの入植地を設け、またSSの推定20万人におよぶ外国メンバーをも部分的に使って末端組織作りを目指すものだった。スイス国内だけでも2万戸の隠れ家があった、と伝えられている。


●SS戦犯容疑者の相互援助組織ともいうべき、これらグループの全貌は、謎に包まれている。連合軍がその存在に気づいたのは、かなり後のことで、組織の正体を暴くことはできなかった。

しかしこれらの逃亡補助機関は、作家フレデリック・フォーサイスが『オデッサ・ファイル』の中で描いたような得体の知れない巨大組織ではなかったようだ。実際は、地下組織と呼べるほどの力はなく、ごく小規模の逃亡補助機関だったとの見方もある。


●これらの組織の中でも最大のグループは「オデッサ」である。オデッサ(ODESSA)とは「親衛隊の組織」の略称であり、設立されたのは1947年のことで、戦時中ではない。

独自のナチ戦犯追及機関を持つユダヤ人シモン・ヴィーゼンタールも、この「オデッサ」の全貌を暴くことはできなかった。しかし、「オデッサ」がドイツからの逃亡者をスイスやオーストリアに引き入れ、必要とあればイタリアに逃がしていること、そしてスペインや南米とのつながりを持っていること、までは発見できた。

 


「オデッサ」の謎を追及していた
シモン・ヴィーゼンタール

 

●シモン・ヴィーゼンタールは語る。

「『オデッサ』は、十分に能率的ネットワークとして組織されている。40マイルごとに中継拠点が設けられ、そこには、近くの2つの中継拠点しか知らない、3人から5人ほどの人間が駐在している。彼らは、逃亡者を受け取る中継拠点と、次に引き渡す中継拠点しか知らないわけである。中継拠点は、オーストリア−ドイツ間の国境全体、特に上部オーストリアのオスターミーティング、ザルツブルク地方のツェル・アム・ゼー、チロルのインスブルックにほど近いイグルスなどに設けられている。オーストリアとスイスのどちらにも近いリンダウ市に、『オデッサ』は貿易商社を設立しており、カイロとダマスカスに支店を設けている。」

「しばらく後に、私は次のことを発見した。それは、『オデッサ』が、オーストリア−イタリア間の、いわゆる修道院ルートを開発していたことである。ローマ教会の僧、とりわけフランシスコ派の修道僧たちは、逃亡者が、僧院の長い"安全な"ルートを渡って逃げるのを助けている。疑いなく、カトリックの僧たちは、キリスト教の哀れみの感情に駆られている。」

「『オデッサ』は、国境地帯で暗躍するあらゆる密輸業者と結託している。また、ヨーロッパ各国の首都にあるエジプト、スペイン、シリアの大使館、それに南米のいくつかの大使館と密接なつながりを持っている。さらに、スペインのファランヘ党の"社会救済"組織のドイツ課とも、彼らは連携している。この組織は、"旅行者"をスペインに運んだり、南米に送り込んだりしている。別の"旅行者"はジェノヴァに連れて来られ、南米行きの船に乗せられたりもしている。」


●「オデッサ」の謎を追及するシモン・ヴィーゼンタールは、のちに「オデッサ」の責任者はシリア政府発行のパスポートを所持するハダド・セイドと名乗る男で、この男の正体は、親衛隊のフランツ・ロステロであることを突き止めている。

 

 


 

■■第5章:カトリック教会の援助機関と「蜘蛛(ディー・シュピネ)」


●ナチ残党による地下組織は、オーストリアとイタリア北部に点在するフランシスコ派の修道院と連携していた。この修道院組織の、ナチ戦犯に対する援助活動は、アロイス・フーダル司教によって、積極的に承認されていたのである。


●このアロイス・フーダル司教は、1885年生まれのドイツ人で、ナチ体制の協力者として、つとに名高い存在だった。戦争が終わると、フーダル司教は、バチカン教皇庁を動かし、カトリックの教会組織を、ナチ逃亡者の隠れ家に提供している。フーダル司教の援助活動は、ナチ逃亡者ばかりではなかった。侵攻してきたソ連軍に抵抗し、スターリンの仮借なき弾圧にあえぐクロアチア地方の民族主義者たちにも、フーダル司教は支援をさしのべていたのである。

ナチの逃亡者やクロアチアの逃亡者たちは、カトリックの教会組織を頼って、イタリアへ落ちのびた。バチカン教皇庁は、その彼らに偽名の難民パスポートを発行するなどして、海外(主に南米)への脱出を支援したのだった。

※ ナチスとバチカンの関係について詳しく知りたい方は、別ファイル「ナチスとバチカン 〜教皇ピオ12世の沈黙〜」をご覧下さい。

 

 
アロイス・フーダル司教

ナチの逃亡者やクロアチアの逃亡者
たちを積極的に支援した

 

●1947年5月のアメリカ国務省の機密情報報告によれば、ナチ残党とその協力者がバチカン教皇庁の活動から除外されていないことが示唆されている。

「教皇庁は、出国者の非合法な動きに関与する唯一最大の機関である。この非合法な通行に教会が関与したことを正当化するには、布教活動と称するだけでよい。カトリック信徒であることを示しさえすれば、国籍や政治的信条に関わりなく、いかなる人間でも助けるというのが教皇庁の希望なのだ。」

「カトリック教会が力を持っている南米諸国については、教皇庁がそれら諸国の公館に圧力をかけた結果、元ナチであれ、ファッショ的な政治団体に属していた者であれ、反共産主義者であれば喜んで入国を受け入れるようになった。実際問題として、現時点の教皇庁は、ローマ駐在の南米諸国の領事と領事館の業務を行なっている。」



●ところで、「オデッサ」と肩を並べる、もうひとつの代表的な地下組織に「蜘蛛(ディー・シュピネ)」と呼ばれる組織がある。この組織は、1948年に、グラーゼンバッハ連合軍捕虜収容所を脱走した親衛隊員によって設立された。


アドルフ・アイヒマンは、1946年1月5日にワイデンの連合軍捕虜収容所を脱走して、親類や知人の間を転々としながら、逃亡の地下生活を続けていたが、「蜘蛛」のメンバーであったアイヒマンの部下アントン・ブルガーに連絡をつけて、ナチ残党の「蜘蛛」や、新ナチ党の秘密組織「7つの星」の支援を受けるようになった。

その後、「蜘蛛」のアントン・ブルガーは、アイヒマンを海外へ逃亡させるために、フーダル司教の援助機関に連絡。アイヒマンはローマの修道院からジェノヴァの修道院へ移り、彼は、ボルガノ生まれのリカルド・クレメントという名前(偽名)の身分証明書と、アルゼンチンヘの亡命パスポートを与えられた。以後、アイヒマンは、その名前で、10年間を暮らすことになる。3週間後、ジェノバの港に、アルゼンチン行きの客船「ジョバンナ号」が入港した。リカルド・クレメントことアドルフ・アイヒマンは、このジョバンナ号に乗り、ゆうゆうとヨーロッパを後にしたのである。

 

 
アドルフ・アイヒマン(SS中佐)

アイヒマンは、マルチン・ボルマンや、ゲシュタポの
長官ハインリッヒ・ミュラー、悪魔の医師と呼ばれた
ヨーゼフ・メンゲレ博士が南米で生き延びていると
証言した後、1962年に絞首刑に処された。

 

●なお、ユダヤ人1万5000人を安楽死させた医師ゲルハルト・ボーネも、1949年にバチカンの教会組織の援助でアルゼンチンに逃亡した。しかし、彼は1963年8月にドイツへ舞い戻り、西ドイツ警察に逮捕されそうになると、再びアルゼンチンに逃亡し、次いでブラジルに移り、1964年に逮捕された。

 


カトリック教会の総本山バチカン市国

 

●イギリス『ガーディアン』紙のアルゼンチン通信員であるウキ・ゴーニは、ナチ残党とカトリック教会組織の関係について次のように述べている。


ハリケーンジャンヌが発生することが何の日

「のちに教皇パウロ6世となったジョバニ・バッティスタ・モンティーニ他多くの枢機卿が、その影響力を行使してナチ残党の逃亡支援に道を開き、ときには病的なまでの反共姿勢によって、少なくともそれを道徳的に正当化した。 〈中略〉 フーダルやシリのような司教・大司教が最終的に必要な事柄を進めた。ドラゴノヴィッチ、ハイネマン、デメーテルといった神父が、パスポートの申請に署名した。

こうしたことが明白に証明されているからには、教皇ピオ12世が完全に知っていたかどうかなどという問題は、とるにたらないものであるばかりか、馬鹿馬鹿しいほど無邪気である。」

 

 
(左)ナチス・ドイツの旗 (右)バチカン市国の旗

 

●ナチ戦争犯罪を追及するジャーナリスト、クリストファー・シンプソンは、ナチ残党とカトリック教会組織の関係について次のように述べている。

カトリック教会が何故、どのような経緯でナチの密航に関わるようになったかを解明できれば、大戦後に元ナチとアメリカ情報機関との同盟関係が一気に進展したわけを理解するカギとなる。中でも詳しく調べてみるべき組織は、かの有名なカトリック信徒の組織『インターマリウム』である。1940年代から1950年代初めにかけてはこの組織の全盛期で、幹部たちは、ナチ逃亡者を東欧から西側の安全な場所に密航させる活動に深く関わっていた。後に『インターマリウム』は、CIAの亡命者組織に人員を補給するきわめて重要な役割を果たすことになる。

これがかなり確かな話だというのは、『インターマリウム』の幹部20人が、自由ヨーロッパ放送(RFE)や解放放送(RL)、『被占領ヨーロッパ民族会議』(ACEN)といった組織で、活動家や幹部の座についているからだ。CIAがこれらの組織に資金を援助し支配下に置いていたことは、アメリカ政府も認めている。 〈中略〉

『インターマリウム』の指導者は、ナチ逃走活動の調整役となっていった。そして、バチカン教皇庁の難民救済活動に携わった者の多くは、同時に『インターマリウム』の幹部でもあったのである。

たとえば、『ウスタシャ』(クロアチアのファシスト組織)の逃亡者のために逃走ルートを確保したクルノスラフ・ドラゴノヴィッチ神父は、自称『インターマリウム』幹部会のクロアチア首席代表であった。情報公開法(FOIA)を通じて入手したアメリカ陸軍の調査記録によれば、ウクライナのイヴァン・ブチコ大司教は、教皇ピオ12世自身とともに介入し、ウクライナ人の武装親衛隊(SS)部隊の自由を勝ち取り、『インターマリウム』のウクライナ代表となっている。公然と親ナチを掲げていたラトビアのファシスト組織『ペルコンシュクルスツ』(雷十字)の元総統グスタフ・セルミンスは、『インターマリウム』ローマ支部の役員に任命されている。」

 


ホロコーストを黙認したとして
非難されている教皇ピオ12世

 

●更に、クリストファー・シンプソンは、アメリカ情報機関と「インターマリウム」のメンバーが連携しあっていた事実も指摘する。

1945年のバチカン教皇庁による難民密航ネットワークに始まり、『インターマリウム』を経て、CIAの資金援助を受けた1950年代初めの政略戦計画に至るまで、両者の人脈的なつながりは続いたのである。 〈中略〉

アメリカが、『インターマリウム』の大規模なナチ逃走組織と抜き差しならない関係になったのは、『アメリカ陸軍情報部隊(CIC)』がドラゴノヴィッチ神父を雇ったことがきっかけであった。ドラゴノヴィッチ神父は『インターマリウム』のクロアチア人幹部で、当時、アメリカが支援しつつも公式な接触をするにはきわめて『危険な』情報資産をヨーロッパから脱出させる、特別なラットライン(逃走と脱出のルート)を動かしていた。クロアチアのカトリック教会の高位聖職者であったドラゴノヴィッチ神父は、唯一最大のナチ逃走活動を行なっていたのである。」

「後のアメリカ司法省の報告によれば、ドラゴノヴィッチ神父自身も戦争犯罪人だった。アメリカ司法省は、ドラゴノヴィッチ神父がアメリカの支援する逃亡者の密航に関わり、その結果、ドラゴノヴィッチ神父の独立したナチ逃走活動に対して、事実上──好むと好まざるとにかかわらず──アメリカが資金と保護を与えていた、ということを認めている。」



●また、大戦中にナチスによる迫害を逃れてイスラエルで育ったユダヤ人作家のマイケル・バー=ゾウハーは、著書『復讐者たち ─ ナチ戦犯を追うユダヤ人たちの戦後』の中でユダヤ人によるナチ狩りを克明に記録しているが、ナチ残党とバチカンについて次のように述べている。

 

 
(左)ユダヤ人作家マイケル・バー=ゾウハー
(右)彼の著書『復讐者たち』

 

1948年から1953年にかけて、ドイツにはかなりの数の地下組織が存在していた。シュピネ、オデッサ、シュティレ・ヒルフェ、ルーデル・クラブ、ブルーダーシャフト、HIAGなどで、そのすべてが多少なりとも秘密組織の形態をとり、裁きの日の到来はいつかと恐れおののいている者たちに大々的な支援を与える体制を整えていた。

産業資本家をはじめ、銀行家、元陸軍将校、そして何も詳しいことは知らない一般大衆も、これらの組織に必要な資金調達に巻きこまれた。偽名を使ってドイツ国内に潜伏中の何千というナチ戦犯は、ついに援助と庇護をもとめて行く場所ができたことを知ったのである。

裁判にかけられる者がでると、地下組織は最高の弁護士による弁護を依頼し、裁判官たちに圧力をかけ、ときには、不都合な証人を消すことさえあった。そして、裁判結果が被告にとって不利なものとなった場合は、国外逃亡の準備を整えたのである。」

「バイエルンおよびイタリアの赤十字の職員の一部はナチの不法越境に手を貸したが、それ以上に驚くべき事実は、"カリタス"などの宗教団体に所属する者や、フランシスコ会やイエズス会などがナチ逃亡を支援したことである。ナチスは抜けめなく僧侶たちの慈愛の精神に訴え、教皇ピオ12世が選出されて以来勢力を拡張したバチカンの"ドイツ派閥"とナチ党の間には常に最良の関係が保たれていた。この"ドイツ派閥"の指導者の一人が大司教アロイス・フーダルだった。 〈中略〉

1947年から1953年の間、"バチカン救援ライン"もしくは"修道院ルート"が、ドイツから海外の逃亡場所へ脱出するルートの中で、最も安全、かつ、最もよく組織されたルートだった。」

 

 


 

■■第6章:国際秘密組織「SS同志会」とオットー・スコルツェニー


ナチ戦犯のクラウス・バルビーとフリードリッヒ・シュベンドは、「アメリカ陸軍情報部隊(CIC)」に有給で雇われている間、仲間のために南米に逃れる道を設けた。クラウス・バルビーはボリビア、フリードリッヒ・シュベンドはペルー、ウォルター・ラウフはチリ、アルフォンス・サッスンはエクアドル、オットー・スコルツェニーとハンス・ウルリッヒ・ルーデル、そしてハインリッヒ・ミューラーはアルゼンチンに逃れ、一方、ヨーゼフ・メンゲレはパラグアイに逃れた。

 


南米の諸都市とナチスの要人

 

「オデッサ」や「蜘蛛」を利用した戦犯逃亡者は、間もなく、相互の団結によって、身の安全をはかることになる。この組織が、旧親衛隊員の「SS同志会」という国際組織である。「ナチ・インターナショナル(国際ナチ党)」や「カメラーデンヴェルク」と呼ばれることもある。これこそ、戦後に外国組織を建設するというボルマンの構想を具現したものであると言えよう。


●この「SS同志会」についてシモン・ヴィーゼンタールは語る。

「戦後ほどなく、親衛隊の残党たちによる"戦友組織"が、南米にあることを私は知った。その設立者の1人は、ハンス・ウルリッヒ・ルーデル大佐である。彼らは南米のどの国でも、警察、政府、あるいはドイツをはじめ、オーストリア、イタリアなどの大使館と巧妙に結びついている。旧親衛隊の組織にとって、危険の情報が、常に、大使館筋から入ってくることを知っているからである。」

 


シモン・ヴィーゼンタール

 

●『戦争の余波』の著者であるラディスラス・ファラゴも次のように述べている。

「『オデッサ』が俗に考えられているような機能と規模を持った組織が実は『SS同志会』だった。それはルーデル大佐がドイツ企業や金融界からかき集めた資金によって支えられていた。」

 

 
ハンス・ウルリッヒ・ルーデル大佐

 


●このルーデル大佐とは、戦時中はドイツ空軍のエース中のエースパイロットとして2530回のミッション、519台の戦車を破壊、140機の敵機を撃墜し、1941年にはソ連戦艦「マラート」を撃沈する勲功をたて、1945年に「黄金柏葉剣ダイヤモンド騎士鉄十字章」を授与された男である。戦争を通じて、この勲章を授与されたのは、ルーデル大佐のみである。

ルーデル大佐は純粋な職業軍人であったので、どの国からも戦犯に問われているわけではなかったが、熱烈なヒトラー崇拝者であり、ナチ運動復興の意気に燃えていた。ルーデル大佐は第二次世界大戦後、「ジーメンス社」の販売代理店を、イタリアのローマに設立した。スペインのマドリードに、「マンネスマン製鋼社」の販売代理店を設立した。(「ジーメンス社」も「マンネスマン製鋼社」も、いわゆる「ヒトラー基金」に協賛していた基幹産業である)。

ルーデル大佐は、「ジーメンス社」の製品を売り込むために世界中を飛び回り、旅の先々で亡命ナチ残党に遭遇した。そして彼は、旅先で遭遇した各国のナチ残党に連絡をつけるとともに、団結を呼びかけた。こうして「SS同志会」が組織されたのである。


戦後、ネオナチ運動の国際的なスポークスマンとなったルーデル大佐は、「SS同志会」を組織するにあたって、カトリック教会の組織が中心的な役割を果たしたことを高く評価していた。

彼は次のように述べている。

「カトリック教会をどう見ようが、あなたがたの自由である。しかし大戦直後の数年間にわたって、教会が、特に内部の特定の高位聖職者が、わがドイツのエリートたちを救うために、しばしば死から救うためにしてくれたことを、我々は決して忘れない。逃走ルートの中継点となっていたローマでは、きわめて多くの手配がなされた。教会は、そのありあまる力を使って、我々が海外に出るのを助けてくれたのである。復讐と懲罰を求める血に飢えた勝者の野望は、かくして静かに、しかも秘密裏に、打ち砕かれたのである。」



●「SS同志会」のメンバーは、戦後、事業家として働いていた者が多かった。

組織の設立者といわれるルーデル大佐は、「ジーメンス社」の電機製品を南米に販売する仕事に携わっていた。オットー・スコルツェニーは、「マンネスマン製鋼社」の販売代理店を経営していた。贋造紙幣の専門家だったクリューガーは、アメリカの「ITT」の子会社の重役を務めていた。アイヒマンの部下だったエーリッヒ・ラジャコヴィッチは、ラジャという偽名で銀行をそっくり買収し、イタリアの銀行家になりすましていた。トレブリンカ収容所長だったフランツ・シュタングルは、南米に移る前に、逃亡先のシリアで、すでに事業家として成功していた。

このように、「SS同志会」は、同時にまた国際的な事業家クラブでもあったのである。


●ナチ残党の事業家たちは、互いに業務提携しており、取り引きのみならず、借款などの契約を結んだりしていた。あるいは、ドイツ系企業と南米各国政府との交渉に、仲介役を務めたりしていた。イギリス人ジャーナリストの、ウィリアム・スチーブンソンは、南米におけるナチ関係者の事業活動を要約して、次のように述べている。

「借款団は『SS同志会』のための金融取引を含んでいる。その支店網は、ラテン・アメリカ諸国のすべての首都に設けられており、信頼できる幹部によって、ペルーの首都リマから指揮されている。フランスから戦犯として死刑を宣告されているクラウス・バルビー、ヒトラーのボディーガードだったスコルツェニーの旧部下の、ハバナ人のアドルク・フントハムマー、製鉄所の持ち主オスカー・オプリスト、ボルマンの従僕ヘルンツ・アシュバッハーなどが幹事役となっている。また、借款団は、補助金のようなものを運用している。」



●「SS同志会」は本部をスペインのマドリードに置き、オットー・スコルツェニーが運営した。

このオットー・スコルツェニーは、「スカーフェイス」というあだ名を持つ人物である。大戦中、ヒトラーのお気に入りのSS隊員として活動し、ムッソリーニ救出で一躍有名になった。また翌年、連合国との講和を画策したハンガリーの独裁者ホルティ将軍を封じるため、その息子を、ブタペストの市内から、しかも白昼に誘拐する離れ業を演じた。彼は、その機略と大胆さをもって"ヨーロッパでもっとも危険な男"の異名をとったのである。

 

 
大戦中、ヒトラーのお気に入りの
SS隊員として活動したオットー・スコルツェニー。
"ヨーロッパでもっとも危険な男"の異名をもつ。

 

「SS同志会」は、次第に、世界中に張り巡らされた武器、テロリスト、麻薬密輸網の形成に重要な役割を果たすようになった。またオットー・スコルツェニーは、南米でナチス勢力の基地を作ったが、これが南米で数々の独裁政権を育むこととなった。こうして組織された「SS同志会」は、スコルツェニーによれば、実に22ヶ国にまたがり、会員数は10万名に及んだという。


このスコルツェニーの手腕、その非凡な組織力を狙って、いろいろな人物が彼に接近してきた。例えば、スコルツェニーはスペインの独裁者フランコ将軍に依頼されて、スペイン情報部に訓練を施し、またスペイン陸軍大学で軍事論を講義している。1953年になると、CIA長官のアレン・ダレスに懇望されて、エジプト保安警察の設立を担当している。

 

 
(左)スペインの独裁者フランコ将軍
(右)CIA長官アレン・ダレス

 

●また、"狐"の異名をとるラインハルト・ゲーレンもスコルツェニーに接近してきた。ゲーレンは第二次世界大戦中に対ソ諜報活動の責任者であったが、スコルツェニーとは、大戦末期にソ連軍の背後を衝くゲリラ作戦で協力し合った仲であった。

ゲーレンがソ連軍捕虜による「ロシア解放軍」を編成すれば、一方、スコルツェニーのほうは、スターリン体制に反対するウクライナの民族主義者や、ポーランドの抵抗運動を支援する仕事に携わるというふうだった。ゲーレンの情報部隊とスコルツェニーの破壊工作隊は、敗戦の直前に、隊員を交換するほどの親密ぶりであった。

戦後、ゲーレンは、アレン・ダレスCIA長官と協力して、対ソ情報活動を行なう「ゲーレン機関」を作りあげていたが、スコルツェニーの協力を得ることで、再び地下組織網との連絡と復活に成功する。こうして「ゲーレン機関」は、信頼できる協力的な人物を各国で獲得し、多数の元ナチスを包含していったのである。これらの人物は「Vマン」と呼ばれ、「SS同志会」のメンバーの多くはまた、「ゲーレン機関」の「Vマン」でもあった。

 


ラインハルト・ゲーレン

戦後、CIAと協力して「ゲーレン機関」を組織した。
メンバーの中には逃亡中のナチ戦犯も含まれていた。

 

●スコルツェニーは、「ゲーレン機関」の要請を受けてエジプト治安部隊の訓練計画にも参加したことがある。訓練のために100人のドイツ人からなる軍事顧問団が送り込まれたが、その中には元SSや元ナチ党員がかなり含まれていた。また、団長は、かつてのロンメル将軍の参謀から武装SSの司令官に抜擢されたヴィルヘルム・ファルンバッハーであった。

エジプトのガメル・アブデル・ナセルは、スコルツェニーと元SSの協力によってエジプト権力の座についた。初期のパレスチナ・テロ・グループもスコルツェニーの訓練を受けた。また、エジプトの宣伝省には、ゲッベルスの部下だったフォン・レールス博士のスタッフが、反ユダヤキャンペーンの手腕を買われて雇われていた。

 

 


 

■■第7章:ナチ戦犯受け入れに最も寛容だったフランコ政権とペロン政権


●現在も、世界各地にナチ残党の避難所が数多く存在しているといわれているが、第二次世界大戦後、スペインの独裁者フランコ将軍がナチスの避難を認めたのがそもそものきっかけだった。

 


スペインのフランシスコ・フランコ将軍

1939年8月に「ファランヘ党」の党首・国家主席に就任、
一党独裁体制を敷く。第二次世界大戦ではヒトラーの
再三にわたる参戦要請を退けて「中立」を守り、
多くのユダヤ人をかくまった。戦後は
唯一のファッショ国家の終身主席
として天寿を全うした。

 

●シモン・ヴィーゼンタールは語る。

「あの国(スペイン)には驚かされる。戦争中には2万5000人のユダヤ人をかくまい、引き渡し請求には頑として応じなかった。ところが戦後になると、今度は何千人ものナチスをかくまい、彼らの身柄引き渡しを拒んだのだ。何もしていないユダヤ人と、何かをしたナチスには違いがあるはずなのだが……」

 


シモン・ヴィーゼンタール

 

シモン・ヴィーゼンタールの組織や「世界ユダヤ人会議」によれば、戦後4万から5万人のナチ残党が南米に逃亡したとのことだが、ナチ残党の多くが南米を亡命先に選んだことには理由がある。1つには、親ナチ的なファン・ペロンの独裁政権がアルゼンチンに誕生しており、庇護を受けられることが約束されていたからである。



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