2012年6月4日月曜日

An Investigation Into Artaud’s Theory In Comparison With Naturalism


An investigation into Artaud's theory in comparison with Naturalism

[演劇メモ] 2004/11/26 13:00

Modern spectators, who are prone to take naturalism for standard form of theatre, might be astonished that the period in which plays were performed in naturalism manner is less than one and half centuries, and in the other period most of the elements which could be seen on stage – not only stage set and prop, but also acting style – tended to be more like mimic or symbolical representation than real. Without doubt, theatre is on the decline in these days. Some comments of Joanna Laurens, a British young playwright, might arouse resonance among the people who concern about the future of theatre.

I don't want the same experience from both television and theatre. … For as long as we dare put only naturalism on our stages, writers will only dare write naturalistic plays – and British theatre will remain as poor as it is.1

The word "British" in the comments can be replaced by a number of other countries. This sort of scepticism in the effectiveness of naturalism has existed since the very beginning of its progress, and one of the eminent practitioners who tried to move away from naturalism was Artaud. It might be worth while to re-evaluate the nature of naturalism and the effectiveness of it, and also to consider Artaud's theory as an alternative principle of theatre. Thus, this essay will investigate in the progress and the significance of naturalism in theatre in brief, and then analyse the theory of Artaud.

The history and theory of Naturalism

Neo-classicism and the theory of three-unity had been dominant in European theatre for some two hundred years until 1830, the year in which Victor Hugo put his Hernani on stage. The premier of Hernani, which was filled with both applaud of Hugo's supporter and booing of opponent, is now celebrated as a first triumph of romanticism. On a parallel with romantic movement, the 19th century theatre had tendencies of verisimilitude and picturesque in form, although they were demanded in order to achieve more striking spectacularly effect. Although these tendencies should be clearly differentiated from the aim of naturalism – to depict environment of character as underlying cause of drama and social problems –, these could be considered as a historical background which gave birth to naturalism.2

2012年6月2日土曜日

自然災害について


 

昨年の暮れにインド洋沿岸の国々で津波によって20万人あまりの人々が命を失いました。昨年、日本も台風や地震で被害を受けました。自然災害について考えてみましょう。


地球は平静でじっとしているわけではありません。我々は地球内外から自然の脅威の被害を受けやすいです。地球の表面は固形ですが、内部は溶けた核からできていて、いつどこで地震が起きてもおかしくない状態なのです。


自然の危険がいつ襲うか分かりません。一般に「自然惨事」だと述べられても、地震、雷、台風、洪水、火災、津波などが異なった強烈さを持ち、異なった形で生活にダメージを与えます。これらすべての惨事に共通なのは短時間にしてその地域が住民とともに荒廃することです。最も重要なのは人間がこれらの危険のいずれとも戦う、あるいはこれらを妨げる力を持っていないということです。

2012年5月31日木曜日

環境科学解説:地球温暖化 第1部「地球温暖化とは?」−温暖化がおきるのはなぜ?


自然起源の水蒸気を別にすると、温室効果ガスの主役は二酸化炭素(CO2)です。私たちは地下に埋蔵された石炭や石油などの化石燃料を産業活動や生活に利用してきました。化石燃料は、地球上の微生物や植物から生じたものであり、地球が長い時間をかけて地下に貯えた太陽エネルギーと考えることができます。

化石燃料を燃やすとCO2が発生します。その一部は海洋や森林に吸収されますが、残りは大気中に貯えられます。また、森林の大規模な伐採によって、光合成で樹木に貯えられたCO2が大気に放出されます。とくに20世紀の後半、人類は活動を拡大し、それにともなって大気中のCO2濃度も大幅に増加しました。

2012年5月19日土曜日

「阿弥陀仏がいるのはどうしてわかるのですか?」(メンデルさんのコメント) - 安心問答(浄土真宗の信心について)


「阿弥陀仏がいるのはどうしてわかるのですか?」(メンデルさんのコメント)

メンデルさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

(中略)

もし阿弥陀仏がいるならそのままで救われるんだろうし、阿弥陀仏がいなければお浄土にはいけないと思うけど、阿弥陀仏がいるのはどうしてわかるのですか?私には阿弥陀仏がいるのかいないのか分からないです。

帰命してないのははっきりしてるのですが、

自分の心は関係ないと気がついたらへんな安心感ははあるのです。私は何か安楽椅子に腰掛けてしまったのでしょうか。

2012年5月17日木曜日

アメリカアリゲーター


アメリカ合衆国が世界に誇る宇宙技術を支えているのは言わずと知れたNASA(アメリ カ航空宇宙局)ですが、その本拠地であるケネディ宇宙センターがあるフロリダ州には世界最先端の研究施設とともに、野生のワニが数多く生息しています。そ の中でも世界に2種類しかいな いアリゲーターの仲間であるのがこのアメリカアリゲーター(別名ミシシッピーワニ)です

アメリカにはもう一種類アメリカワ ニという、こちらはク ロコダイルと呼ばれる種類のワニが住んでいますが、アメリカワニはアメリカ合衆国以外にも中南米や カリブ海の島々にも見られるのに対し、アメリカアリゲーターはアメリカ合衆国だ けに生息しています。アメリカ国内でも彼らが住んでいるのは主に東南部地域 で、東海岸に面するヴァージニアからノースカロライナからフロリダを経てテキサス、オクラホマといったアメリカ大陸南部の州に見られます。

アメリカアリゲーターは非常に大きくなるワニの一つで、これまで報告された中で最も大きいものは全長5.8mもあったといわれています(不確かな情報な が ら6mを超 えたものもいたという話も)。しかし近年ではこれほど大きくなる個体は見られなくなっており、彼らの平均的な大きさは全長3〜4.4m体重は 227〜454kgぐらいであるということです。(それにしてもかつてヨーロッパからアメリカ大陸に渡ってきた人々は、まさ かこんな怪物が棲んでいるとは思 いもしなかったでしょうねぇ。当時の人々の驚きはどんな感じだったんでしょうか?)

アメリカアリゲーターの背中には鱗 甲と呼ばれる板状の骨で守られており、ちょっとやそっとの攻撃では効かなくなっています。また彼らの体の半分は非常に大きなしっぽから なり、水中ではこれを左右に振って泳ぐことができます。また足の指の間には水かきも付いており、水中生活に適応した体をしています。

2012年5月16日水曜日


●ヴィーゼンタールの組織と同じく、ナチ残党の追跡に携わってきた民間団体には、もうひとつ「世界ユダヤ人会議」がある。

この組織は1936年、ドイツに隣接するスイスのチューリヒに、32ヶ国のユダヤ人代表280人が集まって創設された。終戦直後、「世界ユダヤ人会議」はナチス・ドイツの罪状を明らかにすべく、ランズベルク戦争犯罪裁判に代表を送り込み、後のニュルンベルク軍事法廷の基本原則に大きな影響を及ぼしている。とりわけ、ユダヤ人問題に関する多くの提言を行ない、検事団に文書や証言を提供するなど、裁判に大きな足跡を残した。

更に、ナチスに略奪されたユダヤ人の財産を取り戻すために、「世界ユダヤ人会議」は主権を回復して間もない西ドイツ政府を相手取り、賠償を求める作業に着手し、西ドイツがユダヤ人の生還者に損失財産の補償を行ない、イスラエルに対しても多額の賠償金を支払うという、ルクセンブルク合意を現出させた。また「世界ユダヤ人会議」の更なる働きかけで、1979年、西ドイツの連邦会議は、ユダヤ人問題についての「時効の廃止」を承認することになった。

 


イスラエルの国旗

 

●ナチスの戦犯を追及する"司法機関"には、ドイツの「ルードヴィヒスブルク・センター」がある。

この機関は、現在、1万6000名の戦犯リストを用意している。戦時中に被害を受けた国々も、独自の捜索機関を設け、まだ逮捕されていない行方不明のナチ戦犯を追及している。名前が重複している場合もあるが、各国の戦犯リストを合計すれば、3万名を上回ると言われている。これらは、犯行と名前が確認されている者だけであって、そのほかにも、犯罪を行なった者の名前が確認されていない場合があるという。


なお、大戦末期、ヨーロッパ南部で行動していたイギリス軍指揮下にあったユダヤ人部隊は、イタリア、ドイツ、オーストリア国境周辺で敗走するナチス・ドイツ軍を追撃、捕えた将兵を処刑するなどした。戦闘とは別の個別的な復讐といえる行動がみられた。このため、イギリス軍はユダヤ人部隊に進撃停止命令を出すほどだった。処刑した数は少なくみても2000人におよぶとの説もあるが、実数は不明。

ポーランド、ソ連などの東方地域では、両国部隊に参加したユダヤ人将兵や解放されたユダヤ人がナチスを追跡、所在を確認して連合軍に通報、処罰を求めた方法と、ユダヤ人自らが戦犯ナチス・ドイツ将兵を特定しながら追跡し、発見しだい現場で個別的に処刑する方法とがとられた。

 


ナチスに対する復讐に燃える「ユダヤ人部隊」

彼らは戦犯ナチス・ドイツ将兵を特定しながら
追跡し、発見しだい現場で個別的に処刑した

 

●このポーランドやソ連などから逃亡したナチス戦犯追及の中心になったのは、オーストリアのウィーンに置かれたユダヤ人組織である。これには1920年に結成されたユダヤ人武装組織「ハガナ」機関(イスラエル建国後は解消)と、ウィーン大学のユダヤ人学生が中心になって結成された「反ナチ学生組織」の2つがあった。双方は協力関係にあった。

当時、両組織はウィーン市内外で35人のナチス戦犯の所在を確認、ソ連軍に通報して逮捕、軍事裁判で死刑や有罪判決を得るなどの実績をあげた。イスラエル建国後、両組織に所属していた人々の大部分が祖国に移住したためウィーンでの活動は次第に低調になる。しかし、イスラエル共和国ではナチス追及の手は緩めず、1950年に「ナチス及びナチス協力者処罰法」を設け、中心的役割を担った強力な秘密情報機関「モサド」が活動を展開した。

 

 


 

■■第2章:マルチン・ボルマンによる戦後のナチス再建計画


●戦時中に、非軍事的な民間人を殺害したドイツ人の戦争犯罪人は100万人もいると言われているが、その大部分はナチス親衛隊(SS)の隊員だった。ナチス親衛隊は、親衛隊の職員や補助組織のメンバーを含めると、約150万名にものぼる。親衛隊組織の全員が戦争犯罪者ではないが、連合国側はこのうち、約5万名を逮捕し、10分の1の5000名を裁判にかけた。死刑を執行された者も、489名に及んでいる。

 


ニュルンベルク裁判

 

1945年11月、ナチス・ドイツの戦争責任を追及するために連合軍が開いた「ニュルンベルク裁判」は、起訴されたA級戦犯22名のうち、半数の11名が絞首刑を受けるという、厳しい裁判だった。絞首刑を受けたリストの中で、ただ1人だけ逮捕を逃れ、死刑執行も免れた大物がいる。マルチン・ボルマンである。

マルチン・ボルマンは、ナチス帝国の最期の日に、ソ連軍に包囲されていたベルリンから忽然と姿を消してしまったのである。

 


マルチン・ボルマン

ドイツ敗戦直前まで、総統秘書長、
副総統、ナチ党官房長として
絶大な権力をふるった

(この人物の「死」に関しては、
依然として多くの謎が残されている)

 

●ドイツ敗戦直前までボルマンは、総統秘書長、副総統、ナチ党官房長として絶大な権力をふるっていた。彼が握っていた権力は、ニュルンベルク裁判で起訴されたA級戦犯22名の中でも最高のものだったといえる。

優れた洞察力と並外れた現実感覚の持ち主であったボルマンは、1943年にナチス・ドイツ軍が「スターリングラードの攻防」でソ連軍に敗れると、この敗北を冷静に受け止め、その後、いちはやく、ドイツの敗北を前提とする「戦後計画」に着手したのだった。ナチス・ドイツ軍はこのスターリングラードの敗北を境にして、凋落の一途をたどった。


●ナチス帝国の崩壊を予知したボルマンは、ナチスの莫大な財宝を資本として使い、大勢の優秀なナチ党員をドイツ本国から脱出させる作戦を練った。財宝は、黄金75トン強、その他の何トンにもおよぶ貴金属や宝石類、真札、贋札含め数十億ドル分の通貨から成っていた。そのほか、特殊鋼板、産業機械、戦後の産業地域を支配するのに使える秘密の青写真などが、ナチスの貯えた資産の中に含まれていたという。

ボルマンは、実際は、スターリングラード敗北の前年、既にドイツの敗戦を予測していた。1942年の春、ボルマンは「I・Gファルベン社」のヘルマン・シュミッツ会長など、親しい財界人を一堂に集め、連合軍によって企業資産が接収される可能性の高いことを説き、「企業防衛策」を示唆していたのである。

 


「I・G・ファルベン社」の
ヘルマン・シュミッツ会長

 

●ボルマンが提示した「企業防衛策」は、企業の流動資産を国外のドイツ系企業に移して、連合軍の接収に備えるというものだった。事実、この会議の直後から、ドイツの大手企業は、外国のドイツ系関連会社に"隠匿資金"を振り込み始めている。1944年だけで、約10億ドルが、本国の企業から外国の関連会社に振り込まれたとみられている。1944年の夏になると、ボルマンは、戦後に展開すべきナチ運動の「再建計画」を完了している。これを要約すれば、次の通りである。


【1】 戦後、ナチ組織を国外に建設する

【2】 そのために必要な活動資金を国外に移動しておく

【3】 ナチスの党資金を企業に貸与しておき、戦後にこれを、政治献金の形で回収する

【4】 ドイツ国内におけるナチ党の再建要員として、戦犯に問われる心配のない下級幹部を、企業内に潜伏させておく

【5】 ナチ党の再建に必要な記録文書、特に党員名簿や協力者名簿を隠匿しておく

●ボルマンが準備したこの「再建計画」の一部は、戦後、連合軍が押収した文書の中から発見されている。この文書は、1944年8月10日、ナチ党指導部の指示により、シュトラスブルクの「メゾン・ルージュ・ホテル(赤い館)」に財界人を集めて開かれた会議の議事録だった。この会議には、国防軍最高司令部と軍需省から、それぞれ代表者が出席している。財界側からは、「クルップ社」「メッサーシュミット社」「レックリング社」「ヘルマン・ゲーリング帝国工場」の代表者らが参加した。

議事録は次のように述べている。

「党の指導部は、そのある者が、戦犯に問われるだろうと予想している。このため、ドイツの基幹産業は、党の下級指導者を、今から"技術顧問"として受け入れる準備をしておく必要がある。党は、外国での戦後組織に献金する企業に対して、巨額の資金を貸与する。党はその代わり、終戦後の強大な新帝国を建設するために、すでに国外に移された資産、あるいは今後に移される資産の支援を必要としている。」


●この議事録は、ボルマンが準備した戦後ナチスの「再建計画」を受けたもので、基幹産業はナチスの下級幹部を採用せよ、ナチ資金を貸与する代わり戦後の再建ナチスに政治献金せよ、国外のナチ組織を支援せよ、という協力要請に他ならなかった。また、同議事録によれば、この会議では、ドイツ降伏後の、連合国側に対する経済戦争の準備、地下抵抗運動の準備などについても申し合わせている。


2012年5月14日月曜日

化学者のつぶやき -Chem-Station-: 検索結果


ケムステスタッフ徹底紹介!

最近まともに記事を執筆できない代表です。現在、それに反してケムステでは続々と新しいタイプの記事がアップされていることにお気づきになっていますでしょうか。記事「近況報告PartI」で述べたように本年10月に行いましたスタッフ募集で40人超のスタッフ希望メールをいただきまして(ありがとがとうございます!)、そこから実際に執筆していただいた方のみをカウントすると、スタッフ数がなんと50名を超えました(まだまだ募集しています。ご希望の方はお気軽に「スタッフ募集について」)。

そこで、今回どんな人がケムステに参加し、記事を書いているのか統計的なデータも含めまして皆様に紹介したいと思います。

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「無機化学」とはなにか?

 

 

初めて投稿するみねと申します。無機化学系の数少ないブロガーとして記事を書かせて頂きたいと思いますのでよろしくお願いします。

さて、「無機系」と申しましたが、これがえらい問題でして、「無機化学ってなに?」と聞かれると、説明するのに困ってしまうのです。

まず自己紹介代わりに、この「無機化学」について、区画整理をしたいと思います。

 

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2011年文化功労者「クロスカップリング反応の開拓者」玉尾皓平氏

政府は25日、2011年度の文化勲章受章者、文化功労者を発表した。化学分野から有機金属化学の玉尾皓平京都大学名誉教授(現・理化学研究所基幹研究所所長)が文化功労者に選ばれた。

 

今年の文化勲章は「ドクタークロスカップリング」である玉尾皓平先生が選ばれました。パラジウム触媒として用いたクロスカップリング反応で2010年のノーベル化学賞はリチャード・ヘック、鈴木章、根岸英一氏に与えられましたが、その先駆けとなるニッケル触媒を用いたクロスカップリング反応「熊田ー玉尾ーCorriuクロスカップリング」反応を発見され、クロスカップリング反応の開拓者として知られる玉尾先生が文化功労者に選ばれることはとても喜ばしいことです。

すでに、2011年ノーベル化学賞発表前後に玉尾先生の特集は以下のものを中心にして何度か行いましたが

記事参照 「ノーベル化学賞を担った若き開拓者達」「クロスカップリングの研究年表」「2009年ノーベル化学賞は誰の手に?」

、その内容と最新の研究も含めまして簡単に紹介したいと思います。

 

2011年文化功労者「クロスカップリング反応の開拓者」玉尾皓平氏の続きを読む

Chem-Stationスタッフ

現在は主に代表ブレビと副代表cosine、30余名のスタッフで活動しています。試薬情報、セミナー情報などは各種企業と協力して情報を提供しています。

 現在のスタッフの半分近くが大学院生であり、大学院生が主体となって運営しているサイトであるといえます(図1)。

図1 スタッフの職業

 その中でも博士取得者が3割(2011年度見込みも含む)、修士が4割近くと7割が博士、修士号取得者です。

図2 スタッフの学歴

スタッフの数は年々増えており、もうすぐ40名に達します。

図3 スタッフ数の変遷

2011年2月現在のスタッフは以下の通りです。

代表


博士(工学)。専門は有機化学。主に有機合成化学。Chem-Station代表。現在某国立大学教員として日夜研究に没頭している。分子レベルでモノを自由自在につくる、最小の構造物設計の匠となるため分子設計化学を確立したいと考えている。趣味は旅行(日本は全県制覇、アメリカはまだ5州のみ。)、ドライブ、そしてすべての化学情報をインターネットで発信できるポータルサイトを作ること。

副代表

cosine
 

博士(薬学)。Chem-Station副代表。現在某国立大学教員として勤務中。専門は有機合成化学、主に触媒開発研究。関心ある学問領域は三つ。すなわち、世界を創造する化学、世界を拡張させる情報科学、世界を世界たらしめる認知科学。

素晴らしければ何でも良い。どうでも良いことは心底どうでも良い。移り気で興味・趣味は様々だが、そのほとんどがメジャー地位を獲得してなさそうなのは仕様。

スタッフブロガー

Hiro