●ヴィーゼンタールの組織と同じく、ナチ残党の追跡に携わってきた民間団体には、もうひとつ「世界ユダヤ人会議」がある。
この組織は1936年、ドイツに隣接するスイスのチューリヒに、32ヶ国のユダヤ人代表280人が集まって創設された。終戦直後、「世界ユダヤ人会議」はナチス・ドイツの罪状を明らかにすべく、ランズベルク戦争犯罪裁判に代表を送り込み、後のニュルンベルク軍事法廷の基本原則に大きな影響を及ぼしている。とりわけ、ユダヤ人問題に関する多くの提言を行ない、検事団に文書や証言を提供するなど、裁判に大きな足跡を残した。
更に、ナチスに略奪されたユダヤ人の財産を取り戻すために、「世界ユダヤ人会議」は主権を回復して間もない西ドイツ政府を相手取り、賠償を求める作業に着手し、西ドイツがユダヤ人の生還者に損失財産の補償を行ない、イスラエルに対しても多額の賠償金を支払うという、ルクセンブルク合意を現出させた。また「世界ユダヤ人会議」の更なる働きかけで、1979年、西ドイツの連邦会議は、ユダヤ人問題についての「時効の廃止」を承認することになった。
イスラエルの国旗
●ナチスの戦犯を追及する"司法機関"には、ドイツの「ルードヴィヒスブルク・センター」がある。
この機関は、現在、1万6000名の戦犯リストを用意している。戦時中に被害を受けた国々も、独自の捜索機関を設け、まだ逮捕されていない行方不明のナチ戦犯を追及している。名前が重複している場合もあるが、各国の戦犯リストを合計すれば、3万名を上回ると言われている。これらは、犯行と名前が確認されている者だけであって、そのほかにも、犯罪を行なった者の名前が確認されていない場合があるという。
●なお、大戦末期、ヨーロッパ南部で行動していたイギリス軍指揮下にあったユダヤ人部隊は、イタリア、ドイツ、オーストリア国境周辺で敗走するナチス・ドイツ軍を追撃、捕えた将兵を処刑するなどした。戦闘とは別の個別的な復讐といえる行動がみられた。このため、イギリス軍はユダヤ人部隊に進撃停止命令を出すほどだった。処刑した数は少なくみても2000人におよぶとの説もあるが、実数は不明。
ポーランド、ソ連などの東方地域では、両国部隊に参加したユダヤ人将兵や解放されたユダヤ人がナチスを追跡、所在を確認して連合軍に通報、処罰を求めた方法と、ユダヤ人自らが戦犯ナチス・ドイツ将兵を特定しながら追跡し、発見しだい現場で個別的に処刑する方法とがとられた。
ナチスに対する復讐に燃える「ユダヤ人部隊」
彼らは戦犯ナチス・ドイツ将兵を特定しながら
追跡し、発見しだい現場で個別的に処刑した
●このポーランドやソ連などから逃亡したナチス戦犯追及の中心になったのは、オーストリアのウィーンに置かれたユダヤ人組織である。これには1920年に結成されたユダヤ人武装組織「ハガナ」機関(イスラエル建国後は解消)と、ウィーン大学のユダヤ人学生が中心になって結成された「反ナチ学生組織」の2つがあった。双方は協力関係にあった。
当時、両組織はウィーン市内外で35人のナチス戦犯の所在を確認、ソ連軍に通報して逮捕、軍事裁判で死刑や有罪判決を得るなどの実績をあげた。イスラエル建国後、両組織に所属していた人々の大部分が祖国に移住したためウィーンでの活動は次第に低調になる。しかし、イスラエル共和国ではナチス追及の手は緩めず、1950年に「ナチス及びナチス協力者処罰法」を設け、中心的役割を担った強力な秘密情報機関「モサド」が活動を展開した。
■■第2章:マルチン・ボルマンによる戦後のナチス再建計画
●戦時中に、非軍事的な民間人を殺害したドイツ人の戦争犯罪人は100万人もいると言われているが、その大部分はナチス親衛隊(SS)の隊員だった。ナチス親衛隊は、親衛隊の職員や補助組織のメンバーを含めると、約150万名にものぼる。親衛隊組織の全員が戦争犯罪者ではないが、連合国側はこのうち、約5万名を逮捕し、10分の1の5000名を裁判にかけた。死刑を執行された者も、489名に及んでいる。
ニュルンベルク裁判
●1945年11月、ナチス・ドイツの戦争責任を追及するために連合軍が開いた「ニュルンベルク裁判」は、起訴されたA級戦犯22名のうち、半数の11名が絞首刑を受けるという、厳しい裁判だった。絞首刑を受けたリストの中で、ただ1人だけ逮捕を逃れ、死刑執行も免れた大物がいる。マルチン・ボルマンである。
マルチン・ボルマンは、ナチス帝国の最期の日に、ソ連軍に包囲されていたベルリンから忽然と姿を消してしまったのである。
マルチン・ボルマン
ドイツ敗戦直前まで、総統秘書長、
副総統、ナチ党官房長として
絶大な権力をふるった
(この人物の「死」に関しては、
依然として多くの謎が残されている)
●ドイツ敗戦直前までボルマンは、総統秘書長、副総統、ナチ党官房長として絶大な権力をふるっていた。彼が握っていた権力は、ニュルンベルク裁判で起訴されたA級戦犯22名の中でも最高のものだったといえる。
優れた洞察力と並外れた現実感覚の持ち主であったボルマンは、1943年にナチス・ドイツ軍が「スターリングラードの攻防」でソ連軍に敗れると、この敗北を冷静に受け止め、その後、いちはやく、ドイツの敗北を前提とする「戦後計画」に着手したのだった。ナチス・ドイツ軍はこのスターリングラードの敗北を境にして、凋落の一途をたどった。
●ナチス帝国の崩壊を予知したボルマンは、ナチスの莫大な財宝を資本として使い、大勢の優秀なナチ党員をドイツ本国から脱出させる作戦を練った。財宝は、黄金75トン強、その他の何トンにもおよぶ貴金属や宝石類、真札、贋札含め数十億ドル分の通貨から成っていた。そのほか、特殊鋼板、産業機械、戦後の産業地域を支配するのに使える秘密の青写真などが、ナチスの貯えた資産の中に含まれていたという。
ボルマンは、実際は、スターリングラード敗北の前年、既にドイツの敗戦を予測していた。1942年の春、ボルマンは「I・Gファルベン社」のヘルマン・シュミッツ会長など、親しい財界人を一堂に集め、連合軍によって企業資産が接収される可能性の高いことを説き、「企業防衛策」を示唆していたのである。
「I・G・ファルベン社」の
ヘルマン・シュミッツ会長
●ボルマンが提示した「企業防衛策」は、企業の流動資産を国外のドイツ系企業に移して、連合軍の接収に備えるというものだった。事実、この会議の直後から、ドイツの大手企業は、外国のドイツ系関連会社に"隠匿資金"を振り込み始めている。1944年だけで、約10億ドルが、本国の企業から外国の関連会社に振り込まれたとみられている。1944年の夏になると、ボルマンは、戦後に展開すべきナチ運動の「再建計画」を完了している。これを要約すれば、次の通りである。
【1】 戦後、ナチ組織を国外に建設する
【2】 そのために必要な活動資金を国外に移動しておく
【3】 ナチスの党資金を企業に貸与しておき、戦後にこれを、政治献金の形で回収する
【4】 ドイツ国内におけるナチ党の再建要員として、戦犯に問われる心配のない下級幹部を、企業内に潜伏させておく
【5】 ナチ党の再建に必要な記録文書、特に党員名簿や協力者名簿を隠匿しておく
●ボルマンが準備したこの「再建計画」の一部は、戦後、連合軍が押収した文書の中から発見されている。この文書は、1944年8月10日、ナチ党指導部の指示により、シュトラスブルクの「メゾン・ルージュ・ホテル(赤い館)」に財界人を集めて開かれた会議の議事録だった。この会議には、国防軍最高司令部と軍需省から、それぞれ代表者が出席している。財界側からは、「クルップ社」「メッサーシュミット社」「レックリング社」「ヘルマン・ゲーリング帝国工場」の代表者らが参加した。
議事録は次のように述べている。
「党の指導部は、そのある者が、戦犯に問われるだろうと予想している。このため、ドイツの基幹産業は、党の下級指導者を、今から"技術顧問"として受け入れる準備をしておく必要がある。党は、外国での戦後組織に献金する企業に対して、巨額の資金を貸与する。党はその代わり、終戦後の強大な新帝国を建設するために、すでに国外に移された資産、あるいは今後に移される資産の支援を必要としている。」
●この議事録は、ボルマンが準備した戦後ナチスの「再建計画」を受けたもので、基幹産業はナチスの下級幹部を採用せよ、ナチ資金を貸与する代わり戦後の再建ナチスに政治献金せよ、国外のナチ組織を支援せよ、という協力要請に他ならなかった。また、同議事録によれば、この会議では、ドイツ降伏後の、連合国側に対する経済戦争の準備、地下抵抗運動の準備などについても申し合わせている。
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